ワタシも考えた

 id:anti-gizen2さんからご返答の日記を読む。
ワタシはとても驚いた。
 症状としては、本当に全く同じだった。でも驚いたのはそのことではない。そのことはもうちょっと後から述べる。
 詳細はanti-gizen2さんのご日記を読んで頂いてほしいのだか。
 ワタシは考えた。
 ワタシは今、過食嘔吐を止められない。過食嘔吐を、自分のしていることを一歩外から出て出来事を「感じる」ことが最も欠けていて、必要なことなのだ。ついつい自分の感情や出来事を「過食嘔吐」というフィルターをかけてしか見ることが出来なくなっている。
 
 驚いたこと。それは同じ思いをしている誰かがいた、ということが心を温め軽くしてくれた、ってことだ。お互いの傷を舐めあうのではなく思いを「共有」出来ることが、それこそ自分を一歩外へ。ちんぷな表現だが「共有」することで「ひとりではない」と感じることがなんて心を温かくするのだろう。物凄く寂しいかったんだな、と思うのと同時に過食嘔吐に対して、これもまた「俺様」だった。「俺様のこと(過食嘔吐)なんて誰も分かってくれないんだ!」と思っていたのだ。そう思っている限り過食嘔吐は「逃げの温床」でしかない。
 「俺様★論」を知ったことで、本当に独りを実感したら寂しくなったんだな。
 友人との話の中で「無心になるために食べていた」とワタシは話した。小さい頃からそうだった。母とばーちゃんの確執と、そういえば父のご機嫌で可愛がられたり怒られたりするのが本当に嫌だった。怖かった。今なら分かる。物凄い緊張があり緊張していた。それらを解消するために食べていた。解消も解決もしていなかったけど。
 でもそのために「過食嘔吐」しか選べなかったのは、ワタシの貧しさと弱さだ。しょうがない。ワタシにはきっとそれしかなかったのだ。
 anti-gizen2さんがそこまで言及しているわけではないけれど、でも過食嘔吐をやりそうになった瞬間に「うーん・・・待てよ・・・」と考えるようになった。考えないんだって!むしろ考えなくていい状態になるからやめられないんだな。